足跡の記録2014


201410-11 上地


▶銀粘土

微粒化した銀と水を結合材(バインダーと呼ばれる)などと混練した粘土状の素材で、一般的な粘土を扱うように造形し十分に乾燥させたあと、ヤスリなどを使い形を整え、完全乾燥後に焼成する。研磨をすることで銀本来が持つ輝きがでるアクセサリーなどを作る粘土

 

▶上地焼きについて

大谷と呼ばれる山の土地は、よい燃料(赤松)と粘土が豊富で平安時代に焼き窯がありました。水の便がよかったので、非常に焼物に適していたようです。この窯は山の傾斜地を利用した登り窯で、堤ケ入・上矢崎・下矢崎の三つの釜跡があり、碗・皿・壺・甕などが作られていたようです。
現在、岡崎医療刑務所の方々が昔の焼き物さながらに作品作りをしています。

 





201403 上地・福岡


▶弘誓山願成寺(由来書きより)

上地城・上地八幡宮・願成寺境内地について

 願成寺の境内地は上地町宮脇と福岡町南藤六にまたがっています。本堂と庫裡、墓地、鐘楼堂は上地八幡宮と隣接し、低い場所にあり、字名は上地町大字宮脇となっています。ところが、日蓮聖人の御石像台座遥拝所参道等は全て高台にあり、字名は福岡町南藤六と呼ばれています。 宮脇というのは、文字通り上地八幡宮の脇に位置していますが、南藤六はその北に隣接する場所にあたります。地名から推察すると、鎌倉時代上地城主であった大見藤六の住居がこの地にありました。 当時の城は織豊期に造立された城郭とは異なり、農民、町民の住居よりは、やや立派な邸宅程度のものであった由、「上地八幡の栞」によると、元暦元年(一一八四)六月、源範頼(のりより)(頼朝の弟)平家討伐の途次、当所の郷士(ごうし)大見藤六の邸宅に休息しました。この邸宅(上地城)庭に祠があり、八幡大菩薩が祀られていました。 その後、平氏は壇ノ浦にて滅亡し、文治元年(一一八五)十一月、範頼は三河の守護地頭に任ぜられ、建久元年(一一九〇)藤六邸の八幡社殿を造立しました。これが上地八幡宮の由来と伝えられています。

 

上地家俊居館(一二三〇年頃)

 上地家俊の家系は熊本の細川氏の流れに属し、足利氏一族でもあります。足利一門は三河武士の子孫に相当し、岡崎には仁木氏・細川氏・戸賀崎氏等が進出しました。家俊は細川義季(よしすえ)の子で、旧街道の要所でもある上地に居館を造営し、中世城郭としての存在を示しました。

 

栗生氏居館(一三三〇年頃)

 栗生氏は額田の足利氏家臣です。南北朝争乱の頃、上地の土地一帯を治めていたといわれています。

 

大見藤六居館(一五六〇年頃)

 当時、三河一向一揆が勃発したため、大見氏は居館の維持に困窮したようです。以後、廃城と化し、やがて徳川時代を迎えることとなります。

 

日蓮聖人御石像(一九五九~)

 戦争犠牲者の冥福と平和なる日本の建設を祈り、良海日洪・陽傅日艸両師の苦節十三年の努力と、五千人に及ぶ浄財・勤労奉仕によって建立されました。

 

▶上地八幡宮(由来書きより)

この地の郷士「大見藤六」の屋敷に隣接した小さな祠(ほこら)でした。
元暦元年(西暦1184年・平安時代末期)源頼朝の弟、源範頼公が平家討伐に向かう途中、藤六の屋敷で休息した折、範頼公が屋敷の隣にある祠を見付け、この祠は何の神様をお祀りしている祠かと藤六に尋ねました。
藤六が、「八幡宮がお祀りされております」と答えると、範頼公は八幡宮は私の氏神であり守護神であると喜び、その祠に祀られていた八幡神に日頃の御礼を申し上げ、戦勝の祈願をされました。
範頼公は「私がこの戦で勝利を収めることができたのなら、ぜひとも、この小祠を立派な社殿に建て替えさせて欲しい」と言い残して戦に向かいました。
勝運の守護神・八幡宮の御神徳により平家との戦に勝利し範頼公が三河の守護に命じられると、建久元年(西暦1190年・鎌倉時代初期)範頼公は立派な社殿を造営し、祠に祀られていた八幡宮と鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮の御分霊を合わせてお祀りされました。


源 範頼(のりより)

範頼は、源氏の九代目頭領 源義朝の六男で、兄の頼朝(よりとも)・弟の義経(よしつね)とは異母兄弟です。
現在の静岡県浜松市である遠江国・蒲御厨(とおとうみのくに・かばのみくりや)で生まれたため、「蒲冠者(かばのかじゃ)」ともいわれています。
生年は不詳ですが、義朝が仁平三年(1153年)に池田宿滞在の折にできた子とされています。
頼朝と同じく熱田神宮大宮司、藤原季範に養育を受け、治承四年(1180年)頼朝の挙兵に伊豆に駆けつけました。そして、義経とともに木曾義仲を討ち従五位三河守に任ぜられました。
1185(元暦2)年の壇ノ浦の戦いで平家追討の源氏総大将をつとめ、鎌倉幕府の確立にも大きな功績を残しました。
義経が鎌倉幕府反逆の罪に問われ、頼朝から義経追討を命ぜられましたが、「弟を討つことはできない」と拒否したため頼朝の怒りをかい、義経と同様、謀叛の疑いをかけられ、建久4年(1193年)、伊豆の修善寺に幽閉され殺害されました。

 

ご祭神

応神天皇(おうじんてんのう)・・・弓の神様で勝運の神様
仁徳天皇(にんとくてんのう)・・・聖帝と呼ばれ慈愛の神様
天照大神(あまてらすおおかみ)・・・日本の総氏神様で伊勢神宮内宮に祀られている神さまです。
秋葉社・・・ 火の神の迦具土神(かぐつちのかみ)をお祀りしています。防火の神さまです。
健勲社・・・ 日清・日露戦争・大東亜戦争にて散華された英霊をお祀りしています。
うなり石・・・ 道祖神(どうそじん・みちあえのかみ)をお祀りし、交通安全を守護されます。


201401 大樹寺


▶回向院 かつて井田城の傍に有った回向院は大樹寺に移ったが、現在も回向院は大樹寺に隣接し、酒井氏2代氏忠(うじただ)から7代忠善(ただよし)まで酒井家六代の墓がある。