諸神神社をたどる  2019.09



諸神神社 両神神社あるいは星降神社ともいう

 

由緒

{その昔景行天皇の御代今より千八百六十年前日本武尊が日本中部御制定のみぎり、当所に野営せられしある夜、天より3ツの星降り来たり、三人の白髪の者神となりて、尊の前にひまずきて曰く、吾等は三台の星なり、天津神の命により尊の御身を護り奉らんとす、願わくは賊を平らげここに社を祀り給えと宣まいて、また元の星となり、川を越え、飛び去り、北方の山上に消え、三ッの岩と化せりと夢幻の如き お告げあり、よってこの所に宮を祀れりと、それよりこの宮を星降神社と称えたりという}

 

ここまでが星降神社と云われる所以

 

由緒より

{天正七年(今より三百九十年前)に下の宮、上の宮合併せりとあり、下の宮は明大寺西町字南山に、上の宮は同町字西田畦現在のところに在所し、合併後この宮を両神といい、また双神とも称え、其後ち諸神と称えるに至れり}

 

ここまでが諸神(両神)神社と云われる所以

 

現在の地名に両地名は存在しないが、上の宮は現在地。下の宮は字名が残っている、現「明大寺町南山に」あったのではないかと思われる

 

「諸神・両神」は「久後崎町両神」「明大寺町諸神」 があり、境界線を当てると境内に境界があり、社殿に沿って引かれている。

航空写真出ると諸神神社は久後崎町両神に、秋葉神社と土俵は明大寺町諸神になる

 

由緒より

 {昔この土地は龍海院領に属し、寛文四年(二百九十年前)に龍海院十五代目碧雲和尚が社殿再建、また享保十年六月(二百五十年前)同院十七代目寛岩和尚が改造せりとある、後にこの宮は同院より寄進せらるとあり、明治五年十月十二日神明宮として村社に列せらる、大祭は毎年十五日、十六日におこなう、祭神は天照大神、豊受姫命の二柱なり}

 

鳥居は敷地の角にあり対角線上には何もない。社殿は道路に平行にあり、鳥居はないが本殿正面から延びる道はある。「享保十年六月に改造せり」とある。本殿はどちらを向いていたか 現在の鳥居はその時代もこの位置だったか