足跡の記録2005
〇伊賀公園
なだらかな傾斜でたくさん木もあり、鳥たちもとことこ散歩、石のテーブルやイスもあり、ちょっとピクニック気分も味わえそうなよい公園
〇伊賀川沿い
「さくらこはし」は木でできていて、桜の木も保存するために囲ってある
稲熊橋の柱は俵
道路と柵で区切られてる、散歩道は土手になっている
〇稲前神社
延喜式内社として、あつわ神社とともに額田郡で2座あり。鎌倉期には総持寺付近にあり、材木町久後、稲熊に移る。また伊勢神宮に奉納する稲を入れる神倉があったといわれている。岡崎では一番歴史が古いとされている 田中吉政の時こわされ、神体は菅生稲荷社、神領は没収、社僧は上青野に移り一向宗となり、神領山本光寺を創建。 慶長二十年春木氏が祭料として、土地を寄進(今の北高校の付近)。その田地にあった石祠を社殿に移転した。石神と呼ばれていたのが、町名となる。 明治四十五年に町内にあった金毘羅社を移転、春日社を大正二年に移転した。
手水も立派な一枚石
観音扉のように石の模様があって、穴があいてたんだけど、片方は半分ふさがってる燈篭
〇広忠寺
清康の長男で通称次郎三郎、徳川家康の父の菩提寺。銀杏の木の奥に門があり、墓がひっそりとあるが、実は裏の通りから簡単に入れる。分骨が同市の大樹寺・松応寺・広忠寺・ 法蔵寺にも墓がある。又正面に揮毫があるが本物かは分からない。
〇揮毫
朝鮮通信使一行は行く先々で揮毫の依頼を受け、その多くは寺院山門などの扁額として現在まで残されているもの。紙に書いたもの、木板に書いたもの、紙に書いたものを木版に復刻したものなどがある。 正使や写字官などの作品が数多い一方、およそ書道の専門家ではないと思われる人の作品も多数残されている。 ただ、朝鮮通信使なら誰でもが書の達人であると思い込み、しつこく懇願した人も多かったようだが、これもまた当時の国際交流なのかもしれない。
〇道根往還
往還・・行き来する主要な道路、街道。
道根往還は欠、現在の東公園の脇から始まり、山の尾根を通り、須渕から額田鍛冶屋を経て作手・新城まで通じている。 道根の由来は高蔵寺根本中堂に係わっていて、道沿いに堂ヶ根・袈裟掛・法蔵など寺に関するする地名が残っており、古代人が獣を追う為のみちが次第に広げられたようだ。 さらに真福寺や滝山寺に通じる道でもあり、合戦時には敵の目をかすめて進む道でもあったようで、滝山寺の大沼街道などとつながりがとれたのではないだろうか。それぞれの時代の歴史を刻むように、高降寺・恵定坊・幸泉坊、南無阿弥陀仏の石碑、往還中最も難関とされた馬の背道、笠松の碑(才栗)等がある。
少し浮世離れしたところでは、高竜寺から裏道を行くと聖が池があり仙人が住んでいたとか。
時代が代わるとともに、信州との交易にも使われ荷車・旅人とにぎやかな道でだったらしい。 現在、岡崎観光百選であり、道根往還を守る会もできている。石畳の山道や杉林など自然に囲まれた往還は手入れが行き届いている。
〇土井城主本多秀清墓
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この墓は土井城主本多□□秀清のお墓です□□松平五代長親に
仕え手がらを立てて明応六年一四九七年に、この土井郷をもらい
城を築きましたまわりにお堀りがあったそうです
六ツ美北部小学校平成六年度卒業生一同
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〇社宮司社
社宮司社があり、土居一族発祥の碑がある。宮が口と表記されてもいるが、本殿には「宮」と書かれているからこちらが正しいのだろう。
〇正願寺
土地の由来なる合歓木があるはずだったが今は新幹線脇あたりに移植されている
二匹の大蛇がおり、これを親鸞の弟子、善円房により退治された。その場からは泉が湧き出たというところで、東井山正願寺と言う。