江川をたどる  2016.01



 岡崎の中心部に江川と書かれた親柱があり南明橋と書かれている。そこから形跡を追ってみましょう。

 

 東西に流れていたようで、今は民家とマンションの間を西に側溝程度の細くバス通りに向けて流れている。三枚目の手前の幅が元の川幅?

 西の最後の痕跡はここまで。この先は民家の下になり、後を追うことができなくなりました。

  大石先生の岡崎竜海風土記によると、バス通りを横断した先は付属中学校の北側にあった芦池に繋がっていたようだ。つまり芦池がら流れ出て南明橋を通りさらに東に流れていたようです。

 南明橋まで戻って東を見ると埋められいるか暗渠になってます。石垣が途中で埋まっているすね。二枚目の奥を反対から見たものが三枚目。暗渠の上にさらに蓋をして建物があります。四枚目ではこの流れが北向きに変わります。これが東の終点です。

 東西に流れる川はここで北に延びる道?に合流。二枚目は一枚目を北から見た図で、そのまま進むと民家に迷い込んだように見えます。

 川が道に合流することはないですから、この北へ延びているのも川。竜海風土記によれば、この北へ延びている川こそが江川。東西に延びていは江川の支流だったのです。 

 おそらく川幅そのままが道路になっているんでしょうね。川から数メートルは川に付随する土地なので何も建てれなかったのでしょう。土地よりも民家の塀が奥にあります。さらに北に延びる間に何本も東西の道と交わりますがすべて一段高くなっています。このあたりが川の上を歩いている痕跡ですね。

  やがて久後崎のあたりで突き当たってしまいました。先ほどの竜海風土記によると、この先乙川(菅生川)までは延びているようです。

 合流地点に戻って今度は南にと行きたいところですが、暗渠の形跡も無いようです。竜海風土記を見てみると、岡崎駅まで続き占部川合流しているようです。そして矢作川に流れ着くことになります。

 さらにこんなことも考えられるようです。

 乙川は14世紀末までは岡崎城に沿って東から西の流れを南向きに代え占部川沿いの流路で広田川と合流する。つまり今の流れより内側を通っていたことになり、岡崎城から南に線を下ろすと江川の暗渠とほぼ一致。

 江川は乙川のルートそのものだった可能性があるようです。