足跡の記録2013


2014312 井田


〇西光寺と大衆塚

狭間合戦で大樹寺に逃げ込んだ松平元康(徳川家康)を織田軍の追手が大樹寺を包囲。
この時大樹寺の僧兵たちが元康を守りました。織田軍を撃退したのですが、多くの僧兵が戦死してしまいました。その僧兵を葬った

大樹寺の北側にも西光寺が存在する

 

〇千人塚

応仁元年(1467)に松平4代親忠と尾張の品野、三河の伊保の士豪が戦った井田野合戦で戦死した人々の霊を親忠が敵味方区別なく葬ったもの

 

〇城山公園と井田公園

岡崎城の支城として築かれた酒井左衛門尉家の城とされる。酒井家の祖は酒井広親とされ、「松平親氏=酒井与右衛門の娘」の子、或いは、「松平親氏=松平太郎左衛門信重の長女海女」の子と云われ、その出自はハッキリしない。広親の長男氏忠は「左衛門尉家」を称し、忠勝-康親-忠親-忠善-忠次〔徳川四天王の一〕と5代の居城となった。また、広親の次男政親は「雅楽頭家」を称し、信親-家次-清秀と続き、5代正親は松平宗家7代清康・8代広忠・9代家康に仕えたと云う。

 

城山公園と井田公園の間を通る道は中央で分けられ、城山側を歩行専用、井田公園側を車専用としているが、この道幅などからして、空堀の跡ではないかと思える。脇道を入ったところに民家との境の石垣も名残りと思われる。

 

井田公園も郭など城との関係性が十分考えられる。バスケットゴールが置かれている

 

〇井田八幡宮

【祭神】
應神天皇・大山咋命・豊受姫命

 

【由緒】
創建は明らかではない。
「参河聡視録」に当城主酒井家の氏神で享禄元戌子年9月15日、再建すと、享保20年正月、社殿を修復し、明和9年8月15日、石灯篭を、天明元年10月、石鳥居を建立し、安政4年には社殿改築した
 
本殿右の2社は左が日吉神社、右が御霊神社。鳥居が印象に残る。

鳥居について・・・神の使いである鳥が迷うことなく、神社に降り立てるよう目印となるように建てるもので素朴な鳥居はまさにそれを連想させる。


201310 明大寺


〇龍海院

別名「是之字寺」

松平清康が20歳のとき、「是の字」を左手に握る夢を見て、これを模外和尚に占わせてみると、「是の字を握るは天下を取ることなり」(是の字を分解すると日・下・人)と答えたので、喜んだ清康が和尚のために建てた。以後、その家臣酒井正親家の菩提寺となる。

家康の継母真喜姫(田原御前)の墓がある。

 

〇安心院

寿永の頃(1182~1184)源義経公が、浄瑠璃姫菩提のために七堂伽藍具備の大寺を建立し、妙大寺と号した。伽藍は度々兵火に遇い、一時廃頽し、明大寺の一字でありし旧跡に草庵を結び、御本尊に十一面観世音菩薩木彫り坐像を安置された。その御本尊々像は義経公の念持仏で、後、浄瑠璃姫に譲られ姫の死後、ここに納められたと伝えられる。
永享11年(1439)当国六名の影山城主、成瀬大蔵佐国平公が御母君追善のために、学徳兼備の高僧、龍澤永源禅師を懇請して、安心院の御開山とせられた。
明大寺の地名はこの寺に由来する。

 

〇六所神社

松平氏(徳川氏)発祥の地である松平郷(現 豊田市松平町付近)の六所神社(現 豊田市坂上町)より祭神の勧請を受けて創建したものである。徳川家康の産土神として江戸幕府の厚い保護を受けた。


〇東岡崎から藤川駅まで、名鉄ハイキングの列に出会い、予定を変更してついていく事に。地図も目的地もしらないので、ハイキングコースの矢印が頼りの散策。歩くのが目的の一行は周りを見向きもせずに歩く。あちこち我々は立ち止まる。

 

〇鎌倉街道

鎌倉時代に幕府のある鎌倉と各地を結んだ道路網で鎌倉幕府の御家人が有事の際に「いざ鎌倉」と鎌倉殿の元に馳せ参じた道であり、鎌倉時代の関東近郊の主要道の意として用いられている。

江戸時代の五街道は鎌倉街道を整備したところもある。

 

〇七面山宝塔寺

鎌倉街道突き当りに見える法華宗(真門流)の寺正面にタイルで七面山と貼られている。

 

〇道の駅藤川宿

平成24年12月9日に開駅。

今日はいちごフェア開催!岡崎市のいちご生産者の自慢のイチゴの品評会。