足跡の記録2004




殺生石と九尾の狐

高 井蘭山「絵本三国妖婦伝」という江戸時代の小説(ただし、和漢の古書や伝説から取材しているらしい)によると九尾の狐は、古代、中国の殷や周、南インドの 耶竭陀国などで王を狂わせ国を滅ぼした後、日本にやってきた。数百年人々を惑わしながら諸国を転々とし、堀川院の時代に玉藻前として院に巧みに取り入った が陰陽師に正体を見破られ、逃げた先の那須野で人々を喰い殺し悪事をはたらいたために討伐されたという。その屍は大きな石に 変わり、怨念から毒が発生し、二百数十年もの間、この殺生石に近づいた者はことごとく死んだ。国中の名僧たちが調伏しようとして倒れる中、玄翁和尚が祈祷 の後に杖で殺生石を杖でたたくと、石は砕け散り、ようやく狐の霊は成仏した・・・

言い伝えでは玄翁和尚がと飛ばした先は全国3ヶ所の高田と呼ばれる地に飛散した。

・美作国高田(現岡山県真庭市勝山)

・越後国高田(現新潟県上越市)

・安芸国高田(現広島県安芸高田市)、または、豊後国高田(現大分県豊後高田市)

その他にも多く飛散したとも言われ、その一つが村積山にあるといわれている。


〇孝行碑 とら

「父母に孝養を尽くし、農民の範と讃えられた人」
岡崎藩領古部村(古部町)に、病弱な父母と三人で細々と薪を売って暮らしていた。父が病床につくと、一人で山に入り、薪を採って城下で売った。 たまたま村人からもらった膏薬を父につけると、痛みはとれた。この薬が池鯉鮒(知立)で売られていることを聞くと、遠い道のりをいとわず、買い求めて孝養 を尽くした。とら女の評判は日ごとに広まっていった。幕府の巡検使が欠村(欠町)の茶屋で休んでいる折、通りかかったとら女を見て茶屋の主人がその孝心を話すと、巡検使はすっかり感心して、薬料にととら女に金子を与えて去った。巡検使は江戸に着くと、すぐ岡崎藩主水野忠之に言上した。忠之は自分のことのように喜んだ藩主は、1724年(享保九年)賞詞と金子三十貫文と米五俵を与 えて孝心をたたえ、家、屋敷を整え田畑を買いもどし、年貢を免除した。九年後、孝婦の碑は藩主忠輝によって古部の地に建てられた。3



〇石碑

27曲り沿いには、松葉総門跡など名跡の碑が多い

〇一刀軒

にほんでも数少ない、落雁などの木型をつくる職人

〇柿田橋

柿田橋からの河岸にはこの当時民家がぎっしり。八月末豪雨では最大の被蓋となり、その後立ち退き、河岸工事が行われた。



200406 占部川



200405 南中学区






200401 市役所