足跡の記録2007


200711 米河内


〇水くぐり橋

青木川にかかる、今でも生活の橋として使われてるすてきな場所、せりがいっぱい

 

〇萬松寺

道祖神が本堂の右手にありました。裏山から本堂の眺めは紅葉の時期がよい。

 

〇ガラ紡跡

昔はガラ紡の工場だったと思われる場所に△屋根で明り取りの窓がついている。川沿いにあるのは水車を動力として稼動してたから。現在は反毛工場。

 

〇開元の里
三世代同居のために開発された団地 水路を挟み住宅が並び、里の瀬、中の瀬、奥の瀬と三つの公園がある。

 

〇八幡宮 

額の八は鳩の模り。九州の宇佐八幡から行教和尚が、八幡神を勧請して帰る途中、白い鳩が道案内についてきた。、「これは大安寺八幡宮を守るためにきてくれたのだ」と、大事にこの鳩を飼った。これが八幡宮と鳩のつながりの由来


〇大門水郷公園

矢作川の伏流水で満たされた大きな池もあり、いくつかの場所から伏流水が流れ込んでいてレンガでできたため池のようなところから大きな池につながる。園内にはポルトガル語の案内が目立つバーベキュー広場がある。土手を越えるとすぐに矢作川。雨でなければなかなかの眺望

 

〇八釼神社

足利尊氏ゆかりの社で本殿の後ろには石宝塔。市の文化財。説明看板が倒。まわりは竹林あり林のようになっていてとても気のよい。


〇浄教寺

建立は後土御門天皇の文明9年、開基杉浦四郎左衛門。蓮如の弟子となって浄教坊となる。ゆえに文献には浄教寺でなく浄教坊とある。また安置されている不動尊は運慶作とも言われている。

 

〇恵田八幡宮
83段の階段を上った先にある。

手水のかたちが本殿のほうへ向かって軍配の形にかたどられている。
ふるさとの銘木「ひのき」


200705 真福寺


〇西居院

非行・不登校児を受け入れる平成の駆け込み寺

 

〇真福寺の大くす

樹齢約150年、伊勢湾台風で枝が払われたとはいっても見事な大木。

 

〇東屋風の建物

左右が椅子になった建物の正面には、硝子に守られて観音様。昔からあったものを、見てもらい やくするために東屋風に建て替えたとか。 

 

〇モグラを追っ払うしくみ

風で缶が揺れてその振動が棒をとおして地中に伝わる。

 

〇薬師一ノ沢川の両岸

 河岸整備がされていて、川のすぐそばまで下りられるようになっていました。


200704 自然体験の森


〇自然体験の森

良好な自然環境を保全しつつ、自然を活用した各種の体験を通じて環境教育の推進を図ることを目的とする施設において、市民及び市民活動団 体等と行政のパートナーシップ(協働型のつくりこみ)による『市民参加型の環境教育拠点』を目指して平成14年10月1日開設


200703 奥山田


〇奥山田枝垂桜

701年この地に行幸された天皇は、村積山を花の咲きみだれる美しい景色から「花園山」と名付けられたと言われ、その折のお手植えされたのが「しだれざく ら」であり、現在では胸高廻り2.4m、樹高15m、枝張り東西15m、南北 17mの巨木で岡崎市指定の天然記念物の名木となっている。
 また村積神社に祀る木花咲耶姫に容姿の美しさゆえに「美人山」とも言われる。この山に美を吸い取られるので麓には美人がいなくなったなどとも言われる

 

〇神話 木花咲耶姫

積神社には大山祇命(オオヤマズミノミコト)、その娘である木花開耶媛命(コノハナサクヤヒメノミコト)、大巳貴命(オオミタカノミコト)三神が祀られている。大巳貴命は大国主神のことで二神より後年に祀られる。
 大巳貴命は瓊々杵尊(ニニギノミコト)に木花開耶媛命を妻として差し出す際、姉である磐長姫(イワナガヒメ)も共に送るが、醜いゆえに姉のみ返される。
 この仕打ちに対し、「私の娘を二人並んで奉りましたわけは、磐長姫をお召しになって、天神の御子の命が、雪や雨が降り風が吹いても、つねに岩のように永 遠に変わらず、ゆるぎなくいらっしゃるように、また、木花開耶姫をお召しになって、木の花が咲き栄えるように、ご繁栄になるように、祈誓して奉りました。 しかるに磐長姫を返させて、木花開耶姫ひとりをお留めになりましたから、天神の御子の寿命は、木の花のようにわずかな時間となるでしょう」という。
 そのため、今に至るまで天皇がたのご寿命は長久ではなくなった。といわれる。

 

〇龍渓院

文安元年(1444)豊田市渡合の豪族土井九郎左衛門が開基し、松平広忠が再興した曹洞宗。
参道左手には、樹令200年を越す杉の大木が20m程の高さにそびえ、右手の崖には、苔むした16羅漢が立ち並び、境内一面に苔がはえて、「岡崎の苔寺」ともいわれる。


〇西林寺

阿蘇の大臣の配流、(罪人の流刑、ただし、平民でないということで政治的転覆などの疑い(陥れられたか?)をかけられた可能性が強い)された地。そしてここに居をかまえる。土地の民は於御所様と呼び敬い、勅免(勅命による赦免)され帰洛(都、特に京都に戻る)後も大臣の御所に平民は住み難いということで空き家となる。
 一方西譽上人は長崎で手に入れた看瀧観音を護持し諸国巡業の途中、この館(空家)に止宿すると観音縁の地であることを知り、大臣から譲り受け、文明9年(1477 応仁の乱終結年)に山号を御所山西林院専修寺とする

 

〇若一神社
1426年松平信光建立。ご祭神、ニニギノミコト・サルタヒコノミコト・スサノオノミコト
境内には、しめ縄かけた大きな楠と土俵。

 

〇岩津成瀬城

岩津七城の一つ。 若一神社西側の国道248号線、岡崎市岩津市民センター辺り


〇仁木八幡宮

仁木城跡。細川城とは山が続いていたのだとか

本殿の横には舞台。昔はお祭りのときなど、演芸が行われていた。また、その反対側には今年飾った門松の竹が横にしてあり、来年度の人への申し送りで、このように作ってあったということを残しておく。

 

〇細川御前田城趾

248号線が矢作川にかかる手前、左に入ったところ。今は、城らしい物は何もない。石碑のみ。

築城13世紀。 1221年の承久の乱後に三河守護となった足利義氏が、一族の義季(よしすえ)を細川の地に配し、以後、細川氏を名乗った。

 

〇松明院
応安元年(1368)松平村大給に小さな仏堂が建てられ、これを初代大給城主松平乗元(松平氏四代親忠公の次男)が再建して称名院。

開山は隣翁本六和尚で、乗元の弟。乗元は、細川城をも併有し、両地域の土地を領有し、乗元が死んでからその戒名である松明院をとって寺名。その後、五代真乗の時、天正10年(1582)今の所へ移転され、大給松平家一門の菩提寺と定める。

総門右手には、1831年に建立された三十三観音堂、土塀には銃眼